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神戸地方裁判所 昭和58年(わ)832号 判決 1988年1月11日

主文

被告人は無罪。

理由

(本件公訴事実の要旨)

被告人は、昭和五六年六月一〇日から兵庫県甲野郡乙山町長として同町の事務を統轄掌理し、同町が施行する各種工事の、設計及び工事監理業務委託契約締結等の権限を有し、その職務を遂行していたものであるが、昭和五八年三月下旬から四月下旬ころまでの間に、同町南田原《番地省略》の被告人方において、建築設計及び監理等を業とする株式会社X建築設計事務所の代表取締役であるXから、同町施行の同町立乙山一中学校新築工事等の設計及び工事監理業務委託に関し、同会社に右業務を委託する等有利な取り計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら、現金一〇〇万円の供与を受け、もって、自己の前記職務に関し賄賂を収受したものである。

(無罪の理由)

一  昭和五八年三月の某日(証人Aによれば三月二一日(祝日)(なお、同人は捜査段階では検査官に対し三月一三日(日曜日)と述べたとのことである。)。証人Xによればたぶん三月一三日か三月二〇日の日曜日(なお、同人の捜査段階における警察官及び検察官に対する各供述調書ではたぶん三月一三日(日曜日)とされている。)。被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する各供述調書では三月一三日(日曜日)。被告人の当公判廷での供述では「三月二一日(祝日)と記憶している。」とのことである。)の夕刻ころ、株式会社X建築設計事務所の代表取締役であるXが、被告人の知己友人であるB及びAの両名に連れられて被告人の自宅を訪問し、右両名から被告人に紹介されてあいさつをしたりしたことは証拠上明らかであり、その日がいつであったかを除けば、この点についてはなんの争いもない。

本件の争点は、その何日か後に右Xがこんどは一人で被告人方を訪問し、かつその際被告人に対して現金一〇〇万円を供与した事実があったか否かという点である。

二  被告人は公判で右の事実のあったことを極力争っているが、右事実を肯定するのにそう証拠として①証人Xの証言(昭和五九年六月五日第四回公判期日におけるもの)及び②被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する自白(供述調書)が存在する。

このうち証人Xの証言は、

「第一回訪問からおそらく二ないし三週間くらい後のころと思うが、現金一〇〇万円(一万円札一〇〇枚)を入れた袋(のし袋であったとは断言できない。)を持って被告人方を訪問し、応接間に通されて被告人と対面し、被告人に右一〇〇万円入りの袋を差し出したが突き返され、辞去する際に玄関の下駄箱の上に置いて帰った。」

というのである。

右Xは、昭和五八年九月一五日に兵庫県下丙川市長に対する贈賄の被疑事実で逮捕され、以後身柄を拘束されて警察官の取調べを受けるうち、当初は否認していた右贈賄の事実を逮捕後四、五日目くらいから認めるようになり、さらに余罪を追求されて被告人に対する一〇〇万円の贈賄をも自供するに至り、その自供にもとづき同年一〇月五日被告人が本件収賄の疑いで逮捕され、同月六日Xもその贈賄で再逮捕された後は、被告人と並行して本件に関する取調べを受けたものであるが、同月二六日被告人に対する本件の贈賄で被告人といっしょに起訴されるまでの間、その捜査の段階で警察官及び検察官に対して前記証言とほぼ同内容(ただし日時の点を除く。)の自供をするようになり、右起訴後も、自分の公判では贈賄の事実を争わず、昭和五九年一二月二五日には丙川市長に対する一〇〇万円の贈賄と被告人に対する本件一〇〇万円の贈賄との併合罪で有罪判決(懲役一年、二年間刑執行猶予)の宣言を受け、上訴申立をすることなくそのまま確定させており、さらに、前記証言後昭和六二年七月二八日の第三四回公判で再度証人尋問された際にも、被告人に対する一〇〇万円供与の事実はまちがいないとして、これを抽象的に認める供述をしているのであって、前記証言は一応それなりの信用性を持つとみて差支えないかのようである。

一方被告人は、昭和五八年一〇月五日早朝自宅から兵庫県警察本部に任意同行されて取調べを受けた後、同日午後一〇時二〇分ころ大要「同年四月二〇日ころ被告人の自宅においてXから現金一〇〇万円の供与を受けて収賄した。」との被疑事実で逮捕状を執行され、以後一〇月二六日の公訴提起に至るまでの間、身柄拘束のもとに警察官、検察官の取調べを受けたものであるが、逮捕当日午後一〇時三〇分の司法警察員に対する弁解の機会には「X設計の社長から現金をもらったが、金額は一〇〇万円ではなく、三〇万円くらいだったと思う。」と述べた旨録取され、翌日である一〇月六日の検察官に対する弁解の機会にも

「金額が一〇〇万円ではなく、二〇万円程度であったと記憶する。もらった日は昭和五八年三月ころだと思う。それ以外のことはまちがいない。」

と述べた旨録取されているなど、逮捕の当初から、日時、金額の点はともかくとして、Xから現金を受取ったという事実はこれを認める態度を示し、翌七日の裁判官による勾留質問に際しては「本年四月二〇日ころXが来宅したことはまちがいない。その際にXが封筒に入った金を私に渡そうとしたことがある。金額は一〇〇万円ではなく一〇万円程度であり、はっきりはしないが、その金を受取ったような気もする。」と述べてその態度をあいまいにしたことはあるものの、同月一五日になると「Xから一〇〇万円くらいの金をもらった。」と警察官に認めるようになり、同日以後の警察官及び検察官に対する各供述調書中で

「第一回来訪後一週間くらいした三月二〇日ころ(あるいは三月下旬ころ)の夜七時ころ、Xが一人で来訪し、応接間で面接したところ、祝儀袋を差し出したので断わったが、帰るときに玄関の下駄箱の上に置いて行った。その中には一〇〇万円見当の現金が入っていた。」

と、日時の点を除き、Xの証言内容とほぼ同旨の供述を続けているのである。

このように、被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する自白は、逮捕の当初から金額を除いて収賄の事実を認めるものであるうえ、捜査が進展した段階ではその内容が日時の点を除きXの証言とほぼ合致しており、一応それなりに信用性があるように見受けられないわけではない。

三  しかしながら、Xの証言と被告人の捜査段階における自白との間で日時のくいちがいがある点はともかくとするも、そもそも、Xが再度被告人方を訪問したという事実そのものについて、右両者の供述以外にこれを裏付ける資料は一切ないばかりでなく、以下で検討するごとく、Xの証言にも被告人の捜査段階における自白にもその信用性に関する合理的な疑問点が数多くあり、これら両供述によって公訴事実を認め、被告人の有罪を断案することは許されないところといわざるを得ない。

四  まずXの証言について検討すると以下のとおりである。

(第一点)

第二回訪問の日時に関する供述がきわめてあいまいで、しかも場当り的に不自然に変せんしている。

そのうちの日にちの点であるが、捜査段階当初の昭和五八年九月三〇日ころには「姫路市長の選挙(同年四月一四日告示、同月二四日投票)のさい中で四月二〇日ころ」と述べられていたのが、一〇月六日逮捕後の供述調書ではおおむね「三月一三日ころに第一回訪問をしてその一週間くらい後の三月二〇日ころ」と変わり、それが前記証言では「三月一三日か二〇日ころに第一回訪問をしてから二~三週間くらい後で、まだ姫路市長の選挙に入る前」となり、右証言から数日後の同人自身の公判(昭和五九年六月二一日)における供述では「訪問の通り道で朝の通勤客に候補者があいさつしている印象が残っているから香寺町長の選挙(四月一七日告示、四月二四日投票)の告示直後くらいで、四月二〇日ころという記憶である。」と述べられている。

また訪問の時刻に関しては、捜査段階当初の九月三〇日ころには「夜の九時ころ」と述べていたが、一〇月六日逮捕後の警察官及び検察官に対する供述調書ではおおむね「夜七時ころ」となり、ただそのころ警察官に対して「朝であったかもしれない。」と述べたこともあったが、「どちらかといえば夜である。夜の方が可能性が大きい。」と警察官には供述しており(証人Cの証言参照)、「朝であったかもしれない。」ということは供述調書にはとられるに至らなかった。そして本件公判における前記証言では、「夜おそかったということはないが、夕方であったか朝であったかの記憶がない。取調当時は多分夕方ではないかという記憶があった。」といったん述べながら、あとになると「取調当時朝の記憶が強いと申したが、だんだん別に夜でもかまわないという気持で夜と申した。絶対朝だという確信がなかったから夜という調書になったが、自分の記憶ではたしか朝持って行ったように思うている。」と変更し、その数日後の前記同人自身の公判では、「朝の通勤客」という前述の印象のほかに、「被告人方を出たときに小学生が登校しているのを見たように覚えている。」というようなことを述べ、「朝であった」ことを強調しているのである。

朝の通勤客と行き交い、小学生の登校前という朝の早い時刻に果して現金を供与するため人の家を訪問するかどうか、またそのようなことが現実にあれば、訪問を受けた被告人の側としてはその印象が強く残るのではないか(しかるに、後述のとおり被告人の自白では終始「夜」となっている。)という疑念も生じるが、それはさておき、朝の通勤客を相手に香寺町長選の選挙運動が行われているとの印象や、小学生が登校するのに出逢った記憶があるのであれば、最初からそれにもとづきはっきりした供述をすればよいのである。それをしていないということは、要するに訪問の日時に関するXの供述は場当り的であるということである。

訪問の日時に関する供述があいまいで、場当り的に不自然に変せんしているということは、当然訪問した事実そのものについての供述の信用性にも影響するところである。

(第二点)

この点はより重要であると考えられるが、持参したという現金一〇〇万円の出所についてはなんの裏付けもなく、X自身の供述も変せんしており、ことにその点に関する捜査段階における警察官及び検察官に対する供述は、つじつま合わせのようでもあり、作話的である。

右出所についてXはその証言で「現金一〇〇万円をどのように調達したかは説明のつけようがない。どこから準備したのかはっきりわからない。しかし自分は会社の金を自由にできる立場にあり、会社の金を自宅の納戸のタンスの抽出しや会社の抽出しの中などあちこちにずさんに保管していた。そうした金をまとめて持って行ったということでないか、としか考えられない。」と述べるにとどまり、したがってその裏付けなどとることもできない。

ことにこの点に関して留意すべきは、Xは捜査段階において、会社の経理担当者であるD子名義及びE子名義の裏金預金口座の出入表に準拠したうえ、警察官及び検察官に対する供述調書中で、「昭和五八年二月二二日ころ、自分はすでに被告人に一〇〇万円を供与しようと決意し、二月二二日D子に命じて六〇万円を裏金預金口座から引き出させ、他に、前年の八月二六日ころFサッシ株式会社の代表取締役Fから九〇万円、同年九月一六日ころ株式会社Gの代表取締役Gから五〇万円をいずれも建築資材・器材販売先紹介あっせん手数料としてもらい受けていた残金が右五八年二月当時で五~六〇万円あったので、この中から四〇万円と右預金引出しの六〇万円とを合わせて現金一〇〇万円を準備し、これを自宅納度のタンスの抽出しの中に仕舞いこんでいた。そしてこの一〇〇万円を前日ころに取出して被告人に供与した。」と、現金一〇〇万円の出所を右二月二二日の裏金預金口座からの六〇万円の引出しという客観的事実に結びつけて供述していたことであり、しかもそれが、公判での証言により、「二月二二日ころに被告人に対する贈賄を決めたというのはまちがいである。二月二二日に六〇万円を引き出したことは事実であるが、それは被告人とは無関係にしたことである。他に使うつもりで引き出した。引き出している以上は何かに使うつもりであったと考えられるが、他に何に使うつもりであったのか、何に使ったのか記憶がない。」と、虚偽であったことが明らかにされていることである。

現金の出所に関する供述があいまいでなんの裏付けもないうえ、その供述内容が作為的に変せんしており、ことに証言の出発点ともいうべき捜査段階におけるこの点に関する供述が客観的事実につじつまを合わせた作話であるということは、証言中、現金一〇〇万円を持参し供与したという供述の信用性にも当然大きく影響するというべきである。

五 次に被告人の捜査段階における自白について検討する。

(第一点)

被告人の自白では、警察官及び検察官に対する各供述調書を通じ、Xが二回目に来訪した時刻が一貫して夜七時ころと述べられている。しかも、「その日は乙山町議会が開催中で(注、乙山町の第一九七回定例町議会は、昭和五八年三月一二日(土)に開会され、同月二八日(月)に閉会した。)、町議会が終わり、自宅にまっすぐ帰り、家にいた時である。」「そして夕食、入浴を終え、自分はふろ上りで着物を着ていた。」などと夜であったことが具体的に述べられている。

ところが、弁護人側の立証によれば、三月二三日(水)から四月一三日(水)までの間の各日は、被告人は夜外泊して帰宅しなかったか、帰宅しても夜九時ころを過ぎていたか、あるいは夜九時ころより前に帰宅したが、他に来客があって被告人方の応接室が使われていたかのいずれかであることが、各日ごとに具体的にほぼ証明されているとみることができる。

そして、訴因では「三月下旬から四月上旬ころまでの間に」となっていて、防禦しなければならない範囲が漠然と広くなっているが、第一回の訪問の日が三月二一日(祝)であるとのAの証言があることや、第一回訪問の日と第二回訪問の日との間隔に関するXの証言内容、並びに、被告人の捜査段階における自白で、後述のとおり、収賄した現金のうちの一部を四月一四日に預金したと述べられている(同日に三〇万円が預金されたことは客観的事実である。)ことをも併せ考慮すると、「Xが夜にやってきて現金を置いて帰った」との被告人の自白の信用性に対する弾劾(一種のアリバイ証明によるもの)は、右の弁護人立証によって一応それなりの成功を収めていると評価することが可能である。

(第二点)

被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する各供述調書では、その自白の一環として「Xが置いて帰った現金一〇〇万円くらいの入ったのし袋を、当夜、被告人夫婦の寝室である八帖間の鴨居に吊るしてあった紺地茶チェック柄の背広の内ポケットにそのまま入れた。当時右背広ほか二着の計三着の背広を一週間くらいずつ交替で着用していたが、四~五日後に右八帖間の紺地茶チェック柄背広の内ポケットからのし袋を取り出し、その中の現金のうち一二~三万円をサイフ及び通勤に携行していた手提かばん内に分けて入れ、その際のし袋は破り捨て、残りの現金を自分が着ていた背広左内ポケットに入れた。」と述べられている。そして、被告人は、右各供述調書中で、被告人の家族等から任意提出されて三着の背広(そのうち一着は青地茶格子柄すなわち紺地茶チェック柄)を右にいう三着の背広であるとして確認しているのであるが、その「紺地茶チェック柄の背広」の実物を検すると、それは、耳の部分に「ダイドーケオリ ポップス ウールアンドトーレイテトロン」とラテン文字(ローマ字)で書かれた生地で造られているもので、その生地の状態からして、盛夏用とまでは仮に言い難いとしても、一応夏服である(合服ではない)と判断することができ、被告人がこれを三、四月ころに着用していたとか、そのころこの背広が被告人夫婦の寝室の鴨居に吊るしてあったというようなことは、被告人の公判供述やその妻H子の証言にもあるごとく、あり得ないことのように考えられるのである。

(第三点)

昭和五八年四月一四日に被告人が乙山町農業協同組合町役場出張所で同農協の被告人名義の普通預金口座に現金三〇万円を預金したことは客観的事実であるところ、被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する各供述調書では、その自白の一環として、「Xからもらった約一〇〇万円の現金のうち三〇万円(または、二五万円に当時の手持金五万円を加えた三〇万円)を右のとおり預金した。」と述べられている。

しかし、弁護人側の立証(証人I(第一回)、同J、同K子、同H子の各証言のほか、不動産売買契約証書(控を含む)三通、普通預金通帳、現金払出し証明書、領収証、農業委員会許可書、取下書、許可申請書、並びに、K子の手帖及びH子の日記と被告人の公判供述)によれば、被告人は、その同居の父L所有名義の乙山町《番地省略》の田一筆一、一六七平方メートルを不動産仲介業Iを通じて他へ売却することとし、昭和五八年四月一二日夜被告人の不在中に右Iからその手付金として被告人方に届けられた現金一〇〇万円を、翌朝までに現実に入手した事実が認められる。そして、被告人の公判供述によれば、前記四月一四日預金の現金三〇万円は右手付金として受取った一〇〇万円のうちの三〇万円である(なおこの点については証人M子の証言による若干の補強もある。)というのであって、被告人のこの公判供述を排斥することはきわめて困難である。

なお、被告人の検察官に対する昭和五八年一〇月二六日付供述調書(謄本)等によれば、同年四月一一日に乙山町農協本所のL名義の当座預金口座に一〇〇万円が入金されていることが認められるが、Lの司法警察員に対する供述調書のほか証人I(第二回)の証言並びに不動産売買契約証書二通及び受取証によれば、右一〇〇万円と前記手付金一〇〇万円とはなんの関係もなく、昭和五七年四月ころに被告人の父Lが同人所有の乙山町《番地省略》田坪一五六一番の一ないし三の三筆の土地合計九一九平方メートルをやはりIの仲介で他に売却し、そのときの代金の一部一〇〇万円(ちなみに、同月九日に手付金一〇〇万円が小切手で授受されている。)を同月一〇日に但陽信用金庫乙山支店でL名義、期間一年の定期預金にし、この定期預金が満期になったので、解約手続のうえ元利金中一〇〇万円を右のとおり乙山町農協本所の当座預金に入金したものと認められる。

また、被告人の捜査段階における警察官及び検察官に対する各供述調書では、その自白の一環として、「Xから収賄した一〇〇万円くらいの現金の中から、昭和五八年九月一三日に神戸の子海宝飾店に対し、昭和五五年一〇月ころに購入して未払いのままになっていたローレックス腕時計の代金二六四、〇〇〇円を支払った。」と述べられている。

しかし、弁護人側の立証(証人Nの証言のほか同人の昭和五八年度ダイヤリー、但陽信用金庫小切手帳控及び同信用金庫本店営業部作成のNあて当座勘定取引照合表と被告人の公判供述)によれば、被告人は昭和五八年八月ころに高卒者であるOの就職のせわをしてやっており、同人の父Nからその謝礼として同年九月一日に現金二〇万円をもらったことが認められる。そして、被告人の公判供述によれば、前記ローレックス腕時計代金二六四、〇〇〇円中二〇万円は、右謝礼としてもらった二〇万円を充当したというのであり、この公判供述を排斥することはきわめて困難である。

以上のように、収賄金の主たる使途についての被告人の捜査段階における供述が弁護人側の立証によって崩されてしまっているのであるが、このことはただそのこととしてだけばかりではなく、被告人の捜査段階における一〇〇万円収賄のはっきりした自白が、以上にあげた四月一四日の三〇万円の預金及び九月一三日の時計代金の支払いをも支出の一内容とする、昭和五八年三月から同年九月までの間の被告人の手持金の収支のアンバランス(その収入には前記四月一二日ころ受領の手付金一〇〇万円や九月一日にもらった就職あっせんの謝礼金二〇万円などは含まれていない。かくして支出が収入を数十万円ないし一〇〇万円くらいも超過する。)の追求によって導かれたとされている(被告人を取調べた警察官である証人羽田野俊雄(第一回)、同野並修(第二回)の各証言のほか、被告人の警察官に対する昭和五八年一〇月一五日付及び同月二二日付各供述調書参照)だけに、なおいっそう、被告人の自白の信用性を大きく損うものといわざるを得ない。

六 一で述べた本件の争点につき証拠を検討した結果は以上のとおりである。

二でみたところからすれば、「Xは実際に現金一〇〇万円を供与しているからこそその記憶が残り、抽象的ではあるがその旨の供述をくり返しているのではないか。」と一応考えてみることは不可能でないし、「被告人も実際に現金をもらっているからこそ、捜査段階でその旨の自白をしたのではないか。」と一応考えてみることも不可能ではない。しかし、刑事被告人を有罪としこれに刑罰を科することの前提となる犯罪事実は、当該訴訟関係のもとで、訴因に即し、証拠によって合理的に認定されるものであることが必要である。ところが、三でも触れたように、贈賄者とされるXの証言と被告人の捜査段階における自白とでは、その機会に現金が供与されたとする第二回訪問の日時等についてくいちがいがあるばかりでなく、四及び五で検討したとおり、そのそれぞれに信用性に関して疑問となる点が数多く存在する。ことにXの証言は、その供述経過において第二回訪問に関する日と時とが不自然かつ場当り的に動揺し、結局どれが本当であるかわからないうえ、供与したとする現金の出所についてもきわめてあいまいで、裏付けがなく、要するにその現金供与に関する供述は、他の客観的なできごととの間の関連性を欠き、その意味で具象性がなく、抽象的である。かつ、右のように動揺を重ねていることや、捜査段階で本件現金の出所であると述べられていた裏金預金の引出しが実は他の用途に充てられていたとされるに至ったことなどを考慮すれば、X証言の信用性ははなはだしく疑問であるといわざるを得ない。被告人の捜査段階における自白についても、「夜」にXの第二回訪問を受けたとする点が、弁護人側の立証によって高度に疑問視されてきたほか、受取ったとする現金の取扱いについて述べるところが客観的証拠と相反する疑いが強かったり、受取ったとする現金の主たる使途として述べられていた支出が実は他から被告人に入ったお金で支弁されていたようにみられてくるなどの事情があり、ことに、捜査段階における被告人の取調べに際してはある期間の被告人の手持金の収入と支出とが検討され、支出合計が収入合計を上回るところから被告人のはっきりした自白が導き出されたとされているのに、他にも十分の収入があったことが立証されるに至ったことなどを考慮すると、被告人の右自白の信用性も大いに疑問であるといわざるをえない。また、Xが第二回目に被告人を訪問した事実そのものについて、同人の供述と被告人の捜査段階における自白以外になんらの証拠もなく、Xと被告人とが結びついた場へ現金がインプットされた証拠もなければ、その場から現金がアウトプットされた証拠もない。さらに、Xの証言と被告人の捜査段階における自白とをたとえ総合してみたとしても、第二回訪問が夜であったことは前述のように他の証拠からして疑わしく、一方朝であったとすれば被告人にその印象が強く残っているのではないかと考えられるのに、その旨の自供がないなど、ある程度具体的に現金供与の事実を認定することはできないところである。そうであれば、本件において証拠にもとづき犯罪事実を合理的に認定することは不可能である。

結局、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑訴法三三六条に従い被告人に無罪の言渡をする。

(裁判官 岡本健)

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